賃金控除・使用者の債権と賃金の相殺
賃金控除等
労働基準法第17条(前借金相殺の禁止)
使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。
労働基準法第24条(賃金の支払)
賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。(第2項略)
○自著「労働基準法の研究」より
労基法第17条
・民法 第509条、第510条
(不法行為により生じた債権を受働債権とする相殺の禁止)
第五百九条 債務が不法行為によって生じたときは、その債務者は、相殺をもって債権者に対抗することができない。
(差押禁止債権を受働債権とする相殺の禁止)
第五百十条 債権が差押えを禁じたものであるときは、その債務者は、相殺をもって債権者に対抗することができない。
※民法の規定の詳細な説明は避けますが、通常の法律行為では「相殺がごく一般的に行われている」わけです。
・民事執行法(差押禁止債権)
第百五十二条 次に掲げる債権については、その支払期に受けるべき給付の四分の三に相当する部分(その額が標準的な世帯の必要生計費を勘案して政令で定める額を超えるときは、政令で定める額に相当する部分)は、差し押さえてはならない。
一 債務者が国及び地方公共団体以外の者から生計を維持するために支給を受ける継続的給付に係る債権
二 給料、賃金、俸給、退職年金及び賞与並びにこれらの性質を有する給与に係る債権
2 退職手当及びその性質を有する給与に係る債権については、その給付の四分の三に相当する部分は、差し押さえてはならない。
3 債権者が前条第一項各号に掲げる義務に係る金銭債権(金銭の支払を目的とする債権をいう。以下同じ。)を請求する場合における前二項の規定の適用については、前二項中「四分の三」とあるのは、「二分の一」とする。
※上記の第152条第1項第2号の「給与に係る債権」とは 、給与にかかわる(関する)債権と考えられます。
・前借金とはなにか。
前借金とは、「労働契約の締結の際又はその後に、労働することを条件として使用者から借り入れ、将来の資金により弁済することを約する金銭をいう」とされています。
通達では、「本条の規定は、金銭貸借関係と労働関係とを完全に分離し金銭貸借関係に基づく身分的拘束関係の発生を防止するのがその趣旨であるから、労働者が使用者から人的信用に基づいて受ける金融、弁済期の繰上げ等で明らかに身分拘束を伴わないものは、労働することを条件とする債権には含まれないこと。」(昭和33年基発90号他)とされています。
また、
法第一七条関係
(一) 弁済期の繰上げで明かに身分的拘束を伴わないものは労働することを条件とする債権には含まれないこと。
(二) 労働者が使用者から人的信用に基く貸借として金融を受ける必要がある場合には、賃金と相殺せず労働者の自由意志に基く弁済によらしめること。
とされています。
これは、判例にも同様の趣旨のものがあり、「労働者の完全な自由意思による場合には、使用者が労働者に対し有する金銭債権を一定の範囲に限り賃金から控除できる」ことになっています。
・前借そのものは禁止されるのか。
解釈では、「前借金制度そのものは禁止せず、単に賃金と前借金を相殺することを禁止するにとどめたもの」とされます。
・前借そのものは禁止されるのか。(続き)
通達でも、「法第17条の規定は、前借金により身分的拘束を伴い労働が強制されるおそれがあること等を防止するため「労働することを条件とする前貸の債権」と賃金を相殺することを禁止するものであるから使用者が労働組合との労働協約の締結あるいは労働者からの申出に基づき、生活必需品の購入等のための生活資金を貸付け、その後この貸付金を賃金より分割控除する場合においても、その貸付の原因、期間、金額、金利の有無とうを総合的に判断して労働することが条件となっていないことが極めて明白な場合には、本条の規定は適用されない。」とされています。
※従って、前借が禁止されないことはもとより、「その貸付の原因、期間、金額、金利の有無とうを総合的に判断して労働することが条件となっていない」場合には、労基法第17条にも違反しないとしています。。
・判例にみる前借金等の相殺
判例1:日本勧業経済会事件 昭和36年最高裁大法廷 判決
労働者の賃金は、労働者の生活を支える重要な財源で、日常必要とするものであるから、これを労働者に確実に受領させ、その生活に不安のないようにすることは、労働政策の上から極めて必要なことであり、労働基準法二四条一項が、賃金は同項但書の場合を除きその全額を直接労働者に支払わねばならない旨を規定しているのも、右にのべた趣旨を、その法意とするものというべきである。しからば同条項は、労働者の賃金債権に対しては、使用者は、使用者が労働者に対して有する債権をもつて相殺することを許されないとの趣旨を包含するものと解するのが相当である。このことは、その債権が不法行為を原因としたものであつても変りはない。(論旨引用の当裁判所第二小法廷判決は、使用者が、債務不履行を原因とする損害賠償債権をもつて、労働者の賃金債権に対し相殺することを得るや否やに関するものであるが、これを許さない旨を判示した同判決の判断は正当である。)
なお、論旨は労働基準法一七条と二四条との関係をいうが、同法一七条は、従前屡々行われた前借金と賃金債権との相殺が、著しく労働者の基本的人権を侵害するものであるから、これを特に明示的に禁止したものと解するを相当とし、同法二四条の規定があるからといつて同法一七条の規定が無用の規定となるものではなく、また同法一七条の規定があるからといつて、同法二四条の趣旨を前述のように解することに何ら妨げとなるものではない。また所論のように使用者が反対債権をもつて賃金債権を差押え、転付命令を得る途があるからといつて、その一事をもつて同法二四条を前述のように解することを妨げるものでもない。されば、所論はすべて採るを得ない。(中略)
多数意見は労働基準法(以下法とのみ言う)二四条が賃金はその全額を支払わなければならない云々とある規定を楯として、労働者の賃金債権に対しては労働者の不法行為に基く損害賠償債権を以てする相殺は許されないものであると解釈するのである。しかし、右にいわゆる賃金は全額を支払わなければならないとの意味は賃金は分割払をしてはならないとか、掛売代金と相殺してはならないとか、いうだけのものであつて、民法が前示のように特に所遇している不法行為に因る損害賠償債権を以てする相殺は許さないなどとは右条文はもとより、その他の規定においても一言半句も言つてはいないのである。もし法がそうした含みをもつているとするならば、法一七条は使用者は前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金とを相殺してはならないと規定しているのであるから、労働者の賃金債権に関しては不法行為に因る損害賠償債権を以てする相殺は許さない旨特にうたうべき筈である。それが民法に対する特別法たる法の当然にあるべき筋道であろう。然るに、そのようなうたい文句のないところを見ると法二四条は不法行為に基く損害賠償債権を以てする相殺に関しては何らタツチせず、その許否については民法の解釈に委ねているものと解釈するを相当と考えるのである。思うに、多数意見は昭和三元年一一月二日当裁判所第二小法廷判決の影響下に在るもののようである。しかし、右判決は多数意見も言つているとおり、債務不履行に因る損害賠償債権を以てする相殺に関するものであつて、本事案とはその内容を異にするものである。右判例は労働者の賃金債権に対する損害賠償債権を以てする相殺の中には本事案のような場合のあることを何らせんさくせず、漫然と「使用者は労働者のの賃金債権に対しては、損害賠償債権をもつて相殺することも許されない」と断じ去つているのである。(以下略)
・判例にみる前借金等の相殺(続き)
判例2:シンガーミシン事件 昭和48年 最高裁第二小法廷 判決
右事実関係によれば、本件退職金は、就業規則においてその支給条件が予め明確に規定され、被上告会社が当然にその支払義務を負うものというべきであるから、労働基準法一一条の「労働の対償」としての賃金に該当し、したがつて、その支払については、同法二四条一項本文の定めるいわゆる全額払の原則が適用されるものと解するのが相当である。しかし、右全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃 金を控除することを禁止し、もつて労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活をおびやかすことのないようにしてその保護をはかろうとするものというべきであるから、本件のように、労働者たる上告人が退職に際しみずから賃金に該当する本件退職金債権を放棄する旨の意思表示をした場合に、右全額払の原則が右意思表示の効力を否定する趣旨のものであるとまで解することはできない。もつとも、右全額払の原則の趣旨とするところなどに鑑みれば、右意思表示の効力を肯定するには、それが上告人の自由な意思に基づくものであることが明確でなければならないものと解すべきであるが、原審の確定するところによれば、上告人は、退職前被上告会社の西日本における総責任者の地位にあつたものであり、しかも、被上告会社には、上告人が退職後直ちに被上告会社の一部門と競争関係にある他の会社に就職することが判明しており、さらに、被上告会社は、上告人の在職中における上告人およびその部下の旅費等経費の使用につき書面上つじつまの合わない点から幾多の疑惑をいだいていたので、右疑惑にかかる損害の一部を填補する趣旨で、被上告会社が上告人に対し原判示の書面に署名を求めたところ、これに応じて、上告人が右書面に署名した、というのであり、右認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし首肯しうるところ、右事実関係に表われた諸事情に照らすと、右意思表示が上告人の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していたものということができるから、右意思表示の効力は、これを肯定して差支えないというべきである。
判例3:日新製鋼事件 平成2年 最高裁第2小法廷 判決
労働基準法(昭和六二年法律第九九号による改正前のもの。以下同じ。)二四条一項本文の定めるいわゆる賃金全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするものというべきであるから、使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の賃金債権と相殺することを禁止する趣旨をも包含するものであるが、労働者がその自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である(最高裁昭和四四年(オ)第一〇七三号同四八年一月一九日第二小法廷判決・民集二七巻一号二七頁参照)。もっとも、右全額払の原則の趣旨にかんがみると、右同意が労働者の自由な意思に基づくものであるとの認定判断は、厳格かつ慎重に行われなければならないことはいうまでもないところである。(以下略)
※「労働者がその自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である」とされる通りに、労働基準法第17条に該当する場合であっても、労働者の自由な意思に基づきかつ民事執行法第百五十二条 の範囲内であれば、賃金と使用者が有する債権を相殺しても違法ではないとしています。
労基法第24条
・賃金支払の5原則
労基法の賃金支払の5原則等です。
1)通貨払いの原則
「この原則は、労働者に不利益な実物給与を禁止するもが本音であるから、公益上の必要がある場合又は労働者に不利益になるおそれが少ない場合には、例外を認めることが実情に沿うので、退職手当について銀行振出し小切手等の交付によることのほか、法令又は労働協約に定めのある場合には実物給与を認めている。
2)直接払いの原則
これは、「親方や職業仲介人が代理受領によって中間搾取をし、又は年少工の賃金を親権者が奪い去る等の旧来の弊害を除去し、労務の提供をした労働者本人の手に賃金全額を帰属させるため、第59条(親権者の代理受領の禁止)とともに、民法の委任、代理等の規定の特例を設けたものである。」としています。
3)全額払いの原則
これは、「賃金の一部を支払留保することによる労働者の足留めを封ずるとともに、直接払いの原則と相まって、労働の対価を残りなく労働者に帰属させるため、控除を禁止したものである。しかし、所得税の源泉徴収、社会保険料の控除のように公益上の必要があるもの及び社宅料、購入物品の代金等事理明白なものについては例外を認めることが手続の簡素化に質し、実情にも沿うので、法令に別段の定めがある場合又は労使の自主的協定がある場合には一部控除を認めている。」としています。(以下略)
・賃金とはなにか。
労基法第24条でいう「賃金」とは、第11条の賃金のすべてをいうとされています。
そこで、第11条によれば賃金とは、
第十一条 この法律で賃金とは、賃金、給料、手当、賞与その他名称の如何を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものをいう。
として、定義されています。
・法の定めによる賃金控除
法令に定めがある場合とは、所得税・住民税・健康保険料・厚生年金保険料・雇用保険料等です。
・直接労働者に支払うこと
賃金は、「労働者の親権者その他の法定代理人に支払うこと、労働者の委任を受けた任意代理人に支払うこと、また労働者が金銭の借入を行っている場合に、その債権者に賃金を渡すこと等を含め、第三者に賃金受領権限を与えようとする委任、代理等の法律行為は無効である。」とされています。
ただし、例えば入院中の労働者に代わって、配偶者が使者として賃金を受領する場合には、あくまで本人の使いにすぎないので、差支えないものとされています。
昨今は、労働者本人の承諾の上で「労働者名義の金融機関等の口座に振り込む」方法が一般的です。この場合で問題となるのは、たとえ本人の要望であっても他者名義(配偶者、親、子等であっても不可)の口座に振り込むことです。例外は、労働者が死亡した場合において、相続人に未払いの賃金を支払う場合です。
差し押さえ処分の場合
全額払いに抵触しない例として、1)「行政庁が国税徴収法の規定に基づいて行った差し押さえ処分に従って、使用者が労働者の賃金を控除のうえ当該行政官庁に納付すること。」、2)「民事執行法に基づく差し押さえ。」以上の2つが、本条に違反しないものと解されています。
・賃金債権の譲渡について
労働者が他者に賃金債権を譲渡する契約を締結した場合であっても、その契約に基づく他者に賃金を支払い、直接労働者に支払わなかった場合には、本条違反になるとされます。
この点は判例によって確認されており、「その譲渡を禁止する規定がないから、退職者またはその予定者が右退職手当の給付を受ける権利を他に譲渡した場合に譲渡自体を無効と解すべき根拠はないけれども、同法(労基法)24条1項が『賃金は直接労働者に支払わなければならない。』旨を定めて、使用者に賃金支払義務者に対して罰則をもってその履行を強制している趣旨に徹すれば、労働者が賃金の支払を受ける前に賃金債権を他に譲渡した場合においても、その支払についてはなお同条が適用され、使用者は直接労働者に対し賃金を支払わなければならず、したがって、右賃金債権の譲受け人は自ら使用者に対してその支払を求めることは許されないものと解するのが相当である。」と判示しています。
ただし、個別事例ながら「妻から賃金債権を譲り受けた夫にその賃金を支払っても、夫婦が生計を一にしないとの特別の事情でもない限り夫に支払われた妻の賃金は結局妻の自由な使用に委ねられたことに帰するから、直接払違反にはならない」とした裁判例があります。
○全額払いの趣旨
この「全額を支払う」の趣旨は、「賃金はその全額を支払わなければならないとするのは、賃金の一部を控除して支払うことを禁止するものである。」とされます。
ここで「控除」とは、「履行期の到来している賃金債権についてその一部を差し引いて支払わないことをいう。また、それが事実行為によると法律行為によるとを問わない。」とされています。
判例でも、「民法509条の法意に照らせば、労働者に使用者に対する明白かつ重大な不法行為であって、労働者の経済生活の保護の必要を最大限に考慮しても、なお使用者に生じた損害のてん補〈テンポ〉の必要を優越させるのでなければ権衡〈ケンコウ〉を失し、使用者にその不法行為債権による相殺を許さないで賃金全額の支払を命じることが社会通念上著しく不当であると認められるような特段の事情がある場合には、この相殺が許容されなければならないものと考えられる。」としたものがありますが、結局、「賃金控除によらなければ社会通念上著しく不当である場合」は、一般には存在せず、債務を賃金から控除出来ないこととなります。
ただし、月例賃金、賞与、退職金であるとを問わず「労働者の完全な自由意思に基づく場合」には、労働者が有する債務を賃金から控除できると解されています。この場合であっても、民事執行法第152条第1項により、賃金の4分の3までは「差し押さえが禁止」されているため、賃金から控除できる額の上限は支払額の4分の1(33万円が上限)までとされています。
参考:民事執行法
第百五十二条 次に掲げる債権については、その支払期に受けるべき給付の四分の三に相当する部分(その額が標準的な世帯の必要生計費を勘案して政令で定める額を超えるときは、政令で定める額に相当する部分)は、差し押さえてはならない。
一 債務者が国及び地方公共団体以外の者から生計を維持するために支給を受ける継続的給付に係る債権
二 給料、賃金、俸給、退職年金及び賞与並びにこれらの性質を有する給与に係る債権
2 退職手当及びその性質を有する給与に係る債権については、その給付の四分の三に相当する部分は、差し押さえてはならない。
3 債権者が前条第一項各号に掲げる義務に係る金銭債権(金銭の支払を目的とする債権をいう。以下同じ。)を請求する場合における前二項の規定の適用については、前二項中「四分の三」とあるのは、「二分の一」とする。
民事執行法施行令
第二条 法第百五十二条第一項 各号に掲げる債権(次項の債権を除く。)に係る同条第一項 (法第百六十七条の十四 及び第百九十三条第二項 において準用する場合を含む。以下同じ。)の政令で定める額は、次の各号に掲げる区分に応じ、それぞれ当該各号に定める額とする。
一 支払期が毎月と定められている場合 三十三万円
二 支払期が毎半月と定められている場合 十六万五千円
三 支払期が毎旬と定められている場合 十一万円
四 支払期が月の整数倍の期間ごとに定められている場合 三十三万円に当該倍数を乗じて得た金額に相当する額
五 支払期が毎日と定められている場合 一万千円
六 支払期がその他の期間をもつて定められている場合 一万千円に当該期間に係る日数を乗じて得た金額に相当する額
2 賞与及びその性質を有する給与に係る債権に係る法第百五十二条第一項 の政令で定める額は、三十三万円とする。
・控除額の限度
本条ただし書の規定による賃金の一部控除については、「控除される金額が賃金額の一部である限り、控除額についての限度はない。」とされています。
一方、過日記述しましたとおりに、民法506条による相殺を行う場合には、同法第510条及び民事執行法第152条の適用があるから、賃金額の4分の3に相当する部分については相殺することができない。(その額が民事執行法施行令第2条で定める額を超えるときは、同条で定める額に相当する部分)
尚、退職手当の場合には、施行令第2条の定めによる額の制限は適用されません。
○賃金放棄事例
・賃金債権の放棄
参考判例:総合労働研究所事件 2002年9月11日 東京地裁判決
本件規定に基づく退職金は、就業規則に基づいてその支給条件が明確に規定されていて、使用者がその支払義務を負担するものであるから、労働基準法一一条にいう「賃金」に該当し、同法二四条一項本文の賃金全額払原則の適用がある。そして、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の生活を保護する同条項の趣旨によれば、本件規定に基づく退職金を免除する旨の意思表示は、労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、同条項に違反するとはいえないというべきであり、このことは、労働者が使用者に対し退職金を免除する旨の意思表示が、労使間の合意においてなされた場合についても妥当するというべきである(最高裁昭和四八年一月一九日第二小法廷判決)。
原告らは、退職金免除の合意があるとしても、就業規則である本件規定が廃止されたことはないのであるから、退職金免除の合意は就業規則を下回る個別合意として労働基準法九三条により本件各免除は無効である旨主張する。しかし、労働者が就業規則に基づき発生する個別の権利について処分する行為は、労働者の一方的な意思表示によりなされる場合であれ、使用者との合意に基づきなされる場合であれ、これが労働者の自由な意思に基づいてなされたと認められる客観的な状況が存在する場合は、有効となるものであって(前掲最高裁判決参照)、「就業規則に定める基準に達しない労働条件を定める労働契約」には該当せず、労働基準法九三条に反するとはいえない。
労働基準法 (労働契約との関係)
第九十三条 労働契約と就業規則との関係については、労働契約法(平成十九年法律第百二十八号)第十二条の定めるところによる。
労働契約法(就業規則違反の労働契約)
第十二条 就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については、無効とする。この場合において、無効となった部分は、就業規則で定める基準による。
※賃金債権の放棄に関して、「 労働者が就業規則に基づき発生する個別の権利について処分する行為は、労働者の一方的な意思表示によりなされる場合であれ、使用者との合意に基づきなされる場合であれ、これが労働者の自由な意思に基づいてなされたと認められる客観的な状況が存在する場合は、有効となる」として、自由な意思表示による賃金債権の放棄は認められるとしています。
・労働者の希望しない口座振込み
参考判例:御国ハイヤー事件 1981年9月22日 高松高裁判決
労働者に対する賃金支払方法につき賃金を保護した労基法二四条一項の趣旨よりみて、前記基本通達における、賃金支払を口座払にするに必要な労働者の意思とは、労働者各人の自由な意思の趣意と解される。口座払の方法が通貨払と同一視できるほど便利なものであるかどうかはもっぱら個々の労働者の主観的事情によるとは、原判決の既に指摘するところであるが、その主観的事情は人によって異り得るのであるから、賃金保護の趣旨よりみて、先づ労働者各人の自由な意思が尊重されるべきことは多言を要しない。本件においても口座払の方法によることの合意は、各労働者と被告人ら会社側との間で個々的になされたものであり、したがって右支払方法の継続を希望しない労働者の合意の解除は、同様個々的に会社側との間になされなければならない。各労働者の個々的な口座等指定取消の通知なり、同意取消の通知なり、合意の解除申込なり、という性質を示すものが会社側に対しなされなければならない。その際においても保護さるべきは各労働者の賃金であり、重視さるべきは労働者個々の意思であり、たとえば、かりそめにもこれを組合がその斗争手段等として悪用したり組合の便宜のため左右したりしてはならないし、会社側としても、本人よりのものであると認められるものがあればそれが取消権の濫用等でない限り、誠実に対処し各労働者の意思を尊重すべきであると考える。
※逆の場合、つまり労働者が口座振込みを希望しているが、使用者が現金払いを続けたときに、24条違反となるかどうかが気になります。しかし、法24条の趣旨からは、逆の場合には刑事的な違反とはならないと考えられます。ただし、民事的な問題は残るものと思います。
○賃金相殺まとめ
被服費等、労働契約上労働者がその全部又は一部を負担しなければならない場合において、何らの手続もなく使用者が当然にその価額を賃金から控除することは出来ません。また、民法の原則にかかわらず、使用者の債権を労働者の賃金から当然のごとく控除することはできません。
以上で「賃金相殺・使用者の債権と賃金の相殺」を終了します。